生類 憐れみ の 令。 「生類憐れみの令」を授業する①

生類憐みの令 1685~1709 生類憐みの令とは 徳川綱吉(1646-1709) 生類憐みの令とは、そのような名称の単一の法令を意味するのではなく、1685年 (貞享2年|この年に出された、犬猫を繋ぐことを禁止し、犬猫が将軍の御成道に出てきても構わないとしたお触れが最初)から1709年 (宝永6年|徳川綱吉の死去)の24年間にわたって、徳川五代将軍綱吉によって強力に推し進められた、人間 (捨子、病人、囚人、被差別民など)を含む動物全般 (犬・猫・馬・牛などの哺乳類、ヘビなどの爬虫類、金魚などの魚類、コオロギなどの昆虫... に対する憐み (慈悲|生類をいつくしみ、楽を与える慈と、生類をあわれんで、苦を除く悲からなる心情)政策に関わる多数 (総数135件)のお触れの総称です。 (田中丘隅 民間省要 所沢市史研究第3号p138) 追記 狭山丘陵南側の中藤村(現武蔵村山市)では、元禄13年(1700)犬の飼育に使った藁 (わら) や菰 (こも) の負担として「中野御用わらこも納代」114文8分 を納入しているようです。

6

著者 板倉 聖宣 出版日 1992-08-01 天下の悪法ともいわれたこの法令ですが、もとは綱吉の善意から作られたといわれています。

一、主無き犬、頃日 けいじつ は食物給 たべ させ申さず候やうに相聞こえ候。 生類憐れみの令がなぜ発布されたのか? 江戸時代初期、江戸の町では「殺人事件や暴力」が多発した! 徳川幕府によって 「元和偃武 げんなえんぶ)」の時代になり、世の中は戦乱の時代ではなくなっていたが、人心からは戦国時代の感覚がまだ抜け切れていなく、ちまたでは暴力があふれていたのでした。 服忌令 神道の穢れの概念(死に対する忌避感) - 穢れ: 神道においては、もともと「気枯れ (生命力が枯渇する状態)」のことで、死につながるものとして忌み嫌われ、さまざまな間違いや罪 (社会から罰せられる過ち)を犯しやすい状態とされている。

6

ここでは、最近の解釈で生類憐みの令のはじまりとされる1685年と、法令の原文を紹介した1687年の語呂合わせを紹介しましょう! 拾 16 わ 8 な 7 い、犬のご飯は拾わない 貧乏でお腹が空いていても、大切な犬のご飯を食べてはいけなかったのですね。 5月12日:岡部隠岐守六尺 駕籠かき 角左衛門、当月11日西ノ久保 港区神田町付近 で犬を切り殺す。

14

17

・・・』 (『』内は、「大石学編 多摩と江戸 P117~118 桜井明男 生類憐みの令と多摩」による) この犬が、先に紹介した、北野村の犬につながるとすれば、狭山丘陵の麓の村には丘陵の南北にわたって、中野犬小屋の犬が預けられたようです。 (大石学編 多摩と江戸 P114 桜井明男 生類憐みの令と多摩)(狭山丘陵南側の中藤村以下、2000年3月27日追加) 山口領の村には犬が預けられた さて、野良犬は増えるばかりです。 一、鳥類・畜類、人の疵 きず 付け候やう成るは、唯今 ただいま までの通り相届けるべく候。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 「生類憐みの令」の解説 7~8世紀に牛馬屠殺祈雨風習の,百姓私畜のの放養令,殺生禁令等があり,の殺生禁令をもふくめて,日本史上生類愛護の趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。 (所沢市史研究第3号、大館右喜氏 生類憐愍政策の展開 p141) 追記 上に、「 狭山丘陵南側ではわかっていませんが、」と書きましたが、その後、狭山丘陵の南側でも犬を預かっていることを知りました。

1